八鶴湖の歴史

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八鶴湖は東金御成街道の終点であり、池は東金御殿築造の際、
もともとあった「とき池」という小さな池を広げ現在の姿となり、
谷池や御殿池、八鶴池(やつるいけ)と呼ばれ、人々に親しまれた。

 

時は慶長19年(1614年) 約400年前、現在は八鶴湖である谷津池
(御殿前池)の周辺は、大変な騒ぎであった。あの江戸幕府を開いた時の人、
徳川家康公が鷹狩に来るというのだ。

 

 一方その頃、長年の戦国時代が過ぎ、戦いに巻き込まれながら
生きてきた東金の人々は年貢や日々の食べ物を確保するために働きづめだった。
そして慶長6年(1601年)の大地震、慶長9年(1604年)頃から慶長17年(1612年)の
異常気象のため米などの作物ができず、苦しい生活が続いていた時である。

 

 そんな中、東金の発展のために新田開発をしていた人がいた。
名は、嶋田以栢(しまだいはく)徳川幕府代官としてこの地を任されていた以栢は、
数々の問題を村人たちと解決して、ため池を養安寺村の「おんじゃ谷」に造り、
この地域の田畑を潤すための「雄蛇ヶ池」の造成を1604年から始めていた。

 

そしてまさに完成しようとしていた頃、「家康公が来る!」という報が入った。
家康の宿泊のため東金御殿を現在の東金高校の地に造り、景色も楽しんでいただく
ために御殿の前に美しい湖(現、八鶴湖)を急いで整備したのだ。

 

 東金の2つのシンボルである「雄蛇ヶ池」・「八鶴湖」を造ったということで
雄蛇ヶ池の近くには、以栢をまつる水神社がある。

 

 さて、いよいよ家康公がやってくる日が来た。慶長19年1月9日新年早々の寒い時期。
短期間で船橋から東金までの直線道路まで造らせてのお越しだ。

 

 家康の御成りの日は東金の人々がどんな気持ちで迎え、そしてどれだけ忙しい日
だったろう。到着するや否や、鷹狩り・お食事・イベント等の沢山のスケジュール。

 

地元の関係者は、さぞ神経を使ったことだろう。この時のエピソードの1つに
蜜柑の植樹の話しが伝わっている。それは、八鶴湖畔本漸寺境内に家康公が
蜜柑の植樹をしたと伝えられ「お手植えの蜜柑」として伝承されている。
東金名物の湖月堂「ゆず羊羹」の由来である。

 

  ここで興味深いのは、この鷹狩りは、単なるお遊びではなく家康公にとって
とても意味のある行動だったと思われる。

 

なぜなら、この数ヵ月後に大阪冬の陣、
そして翌年元和1年(1615年)夏の陣を起こし戦国時代の幕を下ろすべく豊臣家を
滅ぼしたのだ。2回目の鷹狩りは、その数ヵ月後、11月17日にである。大御所様(家康)
が、御成りになると大勢のお供の人々(老職(ろうしょく)・近習(きんじゅう)・小姓(こしょう)
・側室(そくしつ)・女中(じょちゅう)・鷹匠(たかじょう)・侍医(じい)・僧侶(そうりょ)・商人等)
が厳重な警護の中訪れた。

 

当日の近在は溢れるような騒ぎだった。

 

 1616年に家康公はご逝去する。
日本史に名高い家康公の最期の数年がこの東金と深い関係があったことになる。